完全に“負け”。
映画を観たり、本を読んだりして泣く事。
最近少なくなったなぁ〜と感じます。
基本的に日々笑って過ごしたいと思っているせいか、
映画にしても本にしてもTVを観る時も、無意識に「笑えるもの」を
チョイスしているからでしょう。
さて今回ご紹介する本は、そんな私が最も近い過去に読んで泣いた本です。
「泣く」ために選んだ本ではなかったので、意表を突かれた訳ですが。
●2月26日(火)放送:
二人称で綴られた小説。
主人公「私」は、高校の先輩の「あなた(→名前は小田切孝)」に恋をしています。
自分の知らない世界の事をたくさん知り、学校の成績は良いけど、新宿あたりで
ふらふら生きている小田切に対して、「私」は憧れのような気持ちを抱いています。
でも小田切には彼女がいて、「私」はと言うと、溜まり場のジャズバーで小田切と
言葉を交わす事はあっても、名前も覚えられていない存在。
そんな「私」と小田切ですが、年を経るごとに友達以上の関係になっていきます。
でもいつまで経っても恋人未満。体の関係はおろか、手に触れる事すらありません。
小田切が大怪我をして入院した時も、大阪勤務の「私」は仕事で日々忙しい毎日を
送っているのにも関わらず、車をすっ飛ばして東京に見舞いに駆けつけます。
「明日も暇なんだろ」「来週も来れるんだろ」と小田切に言われるがまま、週末は
東京に通い続ける「私」。
彼女でも無いのに、どうしてそこまでやるの?と普通は疑問に思います。
これは正に“惚れた弱み”。好きで好きでどうしようもない相手であれば、
彼氏であろうが無かろうが(尽くしたところで勝算があろうが無かろうが)
関係ないという…。正直なところ読んでいて、小田切は限りなく“ろくでも
ない人”に近いんですが、無償の愛を捧げる相手かどうか判断するのは
「私」自身という訳です。
「私」も色んな男性と付き合って(←これには何故か小田切が少々やきもちを
焼いたりして)いくんですが、結局は小田切以上に好きになれる男性には
出会えないという結果。でも「私」がいくら好きでも、小田切が彼女もしくは
妻として扱ってくれる見通しはとても薄い。
そんな中「私」はひとつの奇妙な想像をします。
結局なんだかんだピンチの時などには自分を必要としているらしい小田切の
最後を看取るのは、「私」だという想像。
“結婚はしないのに、葬式はするのだ。
私はあなたの骨の小さなかけらを、
ひとつだけくすねることを考える。
半分は乳鉢で擂って、カフェオレに入れて飲んでしまう。
そしたら私の骨になる。
あとの半分はポケットの中だ。
小さな袋に入れて、何か不安な時や困った時に触る”
上記のくだりを読んでべーべー泣きました。
相手が生きていても決して一緒になれないという悲しさが際立ちます。
まぁ実際、骨の粉末をカフェオレに入れて飲むなんて、現実に考えると
えずきそうな感じですが、お守り代わりにしたいと思う気持ちは何だか
理解できます。
初めて読んだ時は延々と泣きっぱなしだった事とか、
当時の心境なんかも色々ひっくるめて、思い出深い一冊です。
おすすめ度:
★★★★★
読み物としては非常に面白い小説だと思います。
でもこういう恋愛はおすすめしません。私も勘弁です。